広東の歴史
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広東省の歴史は古く、10万年以上前に「曲江馬(土貝)人」(いわゆる北京原人みたいなもの)が今の韶関市(広東省北部)付近に生活していた。その後、百越民族がこの地へ住み着いたため、「粤」と呼ばれる。

周夷王8年(紀元前887年)に「楚庭」が作られ、秦始皇帝が中国を統一した後、紀元前214年に今の広東省内に南海郡を設置し、番禺(今の広州)で治めていた。三国時代は(孫)呉に属し、唐代は広東、広西は嶺南道(道は今の省や県に意味と思う)が置かれ、宋代(宋淳化4年:993年)に広南道と名を改めた。元代に広東道(西行中書省に属する)となり、明代には広東道宣慰使司が置かれたが、後に広東布政使司と変わった。清代に広東省となり、現在にいたる。

歴史上、広東省は開発のやや遅れた地域であり、大規模な開発は宋代以後のことであり、それは明代まで続き、広東地域の生産レベルは長江、黄河流域に肩を並べるまでになり、以後中国の経済の牽引となった。

広東は比較的開発の遅れた地域であったが、商品生産は比較的早く、6世紀南北朝時代にさとうきびから、蔗糖、果糖を生産していたとある。阿片戦争後西側資本と技術の影響を受け、清同治五年 (1866年)漢陽兵工厂前身である、槍炮厂が作られ、1873年には中国の最初の民族工業である、南海継昌隆■(■は糸に巣)絲廠ができ、中国現代工業と民族工業の礎となった。

改革解放以来、1984年より広東は経済指標面で、社会消費品の売上高、輸出総額、外資の利用などで、中国一となり、現代の中国の経済発展への道をつけた。

広東は近現代史において、非常に重要な地位を占めており、アヘン戦争、太平天国の乱、辛亥革命など、近代の重要な出来事がことごとくこの広東で起こった。この百年の革命の間に、洪秀全、康有為、孫中山(孫文)など、歴史上傑出した民主革命の先駆者を輩出した。